吉田山桜植樹並びに里山再生事業を行いました

社会奉仕委員会

恒例によって吉田山の植樹を“吉田山の里山を再生する会”などと京都東ロータリーとの共催で3月2日に行いました。神のご加護か前の晩からの雨もやんで東ロータリーからは31名という大勢の方々の参加をいただきました。10本の紅葉を手分けして一時間余りで植えました。石だらけの斜面に穴を掘って2メートルほどの若木を立て、“包帯”を巻いて水をやるのに皆苦労しました。昨年までに桜を計40本ばかり植えましたが、今年はそれらの桜の間に紅葉を植えたわけです。20年もすれば桜も紅葉も太い幹の堂々たる樹木になっているでしょう。我々会員の平均寿命は確か60歳ちょっとですから20年先に我々が植えた木々をほとんどの会員が楽しめるということです。皆さん健康で長生きしましょう。

今回は植樹の後京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二先生の“平安京、京都の森と神さまのお話”をスライド付きでお聞きしました。先生のお話はいつもご持参のほら貝を山伏のように堂々と吹くところから始まりますが、決して法螺を吹く話ではありません。
お話は平安遷都はなぜ行われたかから始まり、神道と仏教の共存は聖徳太子の17条憲法が基である、時代が下がって本地垂迹説となっていった、しかし神道と仏教にははっきりした違いがあると言われます。分かりやすく言えば3つの典型的な違いがあるとのことでした。1つは神道では神は自然の中、巨木や巨石などにいます/あると考えるのに対して、仏教では来世で仏になる、つまり、“ある”と“なる”の違い、もう一つは神は天から我々のところに降臨されるのに対して、仏教では仏のおられる西方浄土に我々が行く、つまり“くる”と“ゆく”の違い、そして3つ目は神の御柱というように神は立つのに対して仏様は座っておられる、つまり立つと座るの違い、があるというわけです!?

吉田神社は全国の神社の中で最もユニークな唯一の神社であるともおっしゃいました。神道は教義を持たない宗教ですが、吉田兼倶が明確な神道理論を展開し本地垂迹説を否定し、大元宮を作って伊勢神宮をはじめ全国の八百万の神を集めたとおっしゃって、その社殿の作りのユニークさをスライドで説明してくださいました。子供たちはもとより我々大人にとっても全てなるほどと納得のゆくお話で(澤井宮司様、以上の要約、間違っていたらお許しください)、皆大いに満足して解散となりました。鎌田東二先生にはこの紙面を借りてお礼申し上げます。京都東ロータリークラブらしい社会奉仕活動であったのではないでしょうか。(長尾真記)